―― 手すりとして、ここにいる
人生を、ひとつの「階段」だと
考えることがあります。
人生という階段は、
元気なとき、
調子のいいときには、
自分の足で、
どんどん登っていくことができます。
そのときは、正直、
手すりの存在なんて意識しません。
なくても登れるし、
気にも留めない。
でも、
階段が急になったとき。
足元が不安定なとき。
失敗や不安、迷いが出てきたとき。
そのときに初めて、
そこに「ある」手すりの意味が分かる。
掴むかどうかは、本人が決める。
でも、掴める場所があるという事実が、
人を生徒を支える。
手すりに似ている

僕は、教員という仕事は、
この「階段の手すり」に
とてもよく似ていると思っています。
前に立って引っ張る存在でもなく、
後ろから押す存在でもない。
ましてや、
代わりに登ってあげることはできない。
ただ、そこにある。
必要なときに、手を伸ばせば、
確かにそこにある。
それが、
自分が大切にしている教員像です。
正解はない

特にそれを強く感じるのが、
高校3年生の進路指導です。
どの大学がいいか。
どの道が安定か。
どの選択が成功か。
外から見れば、
いくらでも意見は言えます。
でも、
最終的にその階段を登るのは、
生徒自身です。
正直、
「そっちはやめたほうがいいんじゃないか」
「もう少し現実を見たほうがいい」
そう思う場面が何度もあります。
それでも、
無理に引っ張ってしまったら、
もし転んだとき、
その転び方、立ち上がり方は、
その子自身のものではなくなってしまう。
だから、
問いは投げるけれど、
答えは奪わない。
それが、
自分が大切にしている距離感です。
距離

最近、夢を追いかけるという選択をした人と、
話をしました。
その生徒は自分の人生の階段を、
自分の足で登ることを選んだ。
夢を追いかけるというのは、
きれいな言葉で語られることも多いけれど、
実際は、とても険しい道でもあります。
きついこと。
理不尽なこと。
思い通りにならないこと。
そして
傷つくこともあるかも知れない。
それでも決める。
進路を決める
夢に生きる。
本質は、きっと同じです。
選択

進路を選ぶこと。
夢を選ぶこと。
そこには、不安も、怖さも、
失敗する可能性もあります。
それでも、
自分で決めて、
自分の足で登り始めなければならない。
そんなとき、
周りの大人ができることは、何だろうか。
僕が出した答えは、
「追いかけない」という選択でした。
それは、突き放すことではありません。
無関心でも、諦めでもない。
夢を追っている最中の人、
進路に向き合っている3年生にとって、
一番つらいのは、
失敗することよりも、
自分の選択を疑わされることだと思うからです。
だから、
揺らさない。
追いかけない。
ただ、手すりとして、
僕はここにいる。
信じる

教員としても、
一人の人間としても、
この距離感は、とても苦しい笑。
追いかけたくなる。
正解を示したくなる。
助けてあげたくなる。
それでも、
そこを踏みとどまる。
それは冷たさではなく、
信じるという行為です。
手すりは、
「掴め」とは言いません。
黙って、そこにあるだけ。
掴む日が来るかもしれないし、
来ないかもしれない。
でも、
登っている途中で、
もし疲れたら。
もし立ち止まりたくなったら…
そのときに、
「あ、ここにあったな」
と思い出せる存在でいたい。
階段の途中

高校3年生の進路も、
夢を追う人生も、
決断は、その人自身のものです。
誰かが代わりに登ることはできない。
だから、
引き留める言葉ではなく、
手すりとして、ここにいる。
今日は、そんな話を書きました。
あなたは今、
人生のどの階段を登っていますか。
そして、
あなたのそばには、
手すりとなる存在はいますか。
あるいは、
誰かの手すりとして、
静かに立っているのでしょうか。





